『なぎさの媚薬3 霧の中のエリカ』(小学館

よそのblogなどを見ると、これまで重松清が書いてきた官能小説*1の感想は、ほぼすべてといっていい割合で、そういうものを書くこと自体についての批判である。曰く、重松さんがこんなものを書くのはショックだとか、途中で読めなくなったとか…。なんかこういうことをいうやつと、『yom yom』を買ってその内容に満足している人間は、非常に重なっている気がするのだが、まあいいや。
本書は「霧の中のエリカ」「天使の階段」という2つの中編からなっている(『週刊ポスト』にて、それぞれ「邦彦の青春」「宏の青春」として掲載されたものの改題)。ひとつめの「霧の中のエリカ」は、幼なじみの男女の話。平穏な成長をしていく邦彦とエリカ。だが、エリカは中学2年の夏休みを境に堕ちていってしまう。そんななかで、邦彦の母親はこう描かれる。

「あの頃」のままの素直でおとなしい息子に安堵して、息子を「あの頃」に封じ込めている自分のことを誇らしげに語るのだ。(p.113)

要するに、子どもが自分にとって都合よくあってほしい、そして都合がいいところしか見ようとしない、見えてこない。これって、先にあげた重松清の官能小説を嫌悪する人たちも同じではないか。自分にとって都合のいいことを書いた重松清は見る、そうじゃないものは見ない。しかも、見ないだけでは飽き足らず、官能小説界から撤退するようにプレッシャーをかける。
まあ、官能小説を憎むぐらいならいい。だが、現実世界ではものごとの都合の悪い側面もきちんと見なければだめだろう。これは官能小説を嫌悪する人たちへのメッセージ*2であり、自分への戒めでもある。

ほぼ日手帳2007』

6月19日のページに、『みんなのなやみ』からの抜粋が掲載されている。また、9月10日のページには、『みんなのなやみ2』からの抜粋も。

yom yom』vol.1(『小説新潮』2007年1月号別冊)

「親指の(思いだせない)記憶」というタイトルでエッセイを書いている(全5ページ)。

『現代』11月号

第28回講談社ノンフィクション賞発表にあたり、選評が掲載されている。

週刊ポスト』2007年1/1、5号

佐山一郎著『雑誌的人間』(リトル・モア)の書評を書いている。

12月17日付朝日新聞朝刊

足立倫行著『親と離れて「ひと」となる』(NHK出版)の書評を書いている。

名古屋での講演(12/5?)

「ひとり一品の言葉に父親はお新香」って、もろに「重松ワールド」だなあ。
http://blog.livedoor.jp/katyoufuugetu/archives/50649772.html

静岡の大学で講演(12/14)

学科の名称と、書かれている地名からすると、静岡英和学院大学かな。草薙球場の近くにあるそう。
http://blog.goo.ne.jp/ko2geta13/e/7fb43ec0496650c033d42dd151344425

*1:『なぎさの媚薬』シリーズの過去2作と『愛妻日記』

*2:大学生の分際で偉そうだなあ。