週刊ポスト』2/17号

枡野浩一著『あるきかたがただしくない』(朝日新聞社)の書評を書いている。
枡野さんは以前、『君の鳥は歌を歌える』(マガジンハウス)に収録されているエッセイ(初出は『星星峡』)のなかで、『ビフォア ラン』について書いている。

ウォーリーと僕の関係が気まずくなったのは、重松清がきっかけだったのだと思う。(中略)
年々技術的には巧みになっていくけれど、それに反比例して年々僕には必要のない作家になっていく……と、真夜中の電話でウォーリーに話した。結局、最も好感を持って読んだのはデビュー作だったのだ。けれど、重松清という作家の存在を僕に教えてくれたウォーリーは、正反対の意見だった。(pp.207-8)

だから、●●●と書中で伏字にされている作家が誰だかわかってしまった、ということが書評文中にあるのを見て、おそらくは●●●=評者重松清なんだろうなと思い、上記の本を立ち読みしてきた。
該当部分は『週刊朝日』初出のエッセイで、かって枡野さんが書いた文章(上で引用したもの)についての、後日譚的な内容になっている。とても感動ものだった。手元に置いて、何度も読み返したくなるような、そんな文章。そのうち購入しようと思う。

2月3日付夕刊フジ(2日発行)「オヤジの細道」

タイトルは「時空を超えた相棒」。幻に終わった重松清の作詞家デビューについて。へえな話。

人生案内(読売新聞朝刊)

下は通算3度目の回答。1月31日付のもの。
http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/gakko/20060131sy21.htm