2ch

拾いものをした。どうやら『FOCUS』の記事らしい。タイトルは「或るアイドル歌手の死――『岡田有希子』が遺書に残した男の名」とある。
ところで、かって重松清はこう書いている。

僕はその後も、ひとの不幸や人気や名声に小判鮫のようにぶら下がって書いた文章で、飯を食ってきた。来た仕事はすべて受けた。路上に彼女が横たわる自殺現場の写真に文章をつけることも、歌番組に彼女の霊が出るという噂を記事にすることも厭わず、いまもひたすらワープロのキーを叩き続けている。(『セカンド・ライン』p.286)

このことを頭に入れて読むと、先述の『FOCUS』の記事が、重松清の書いたもののように見えてくる。タイトルもそうだし、「そして、4月8日――。」という部分もそうだが、ダッシュの使い方がいかにも重松清らしい。
11:45過ぎ、新宿から歩いてあの場所へ向かう。雲間から太陽がのぞきつつも、雨がぱらぱら降るという空模様。現場が見えるところまできて、12:05ごろになると、天気は一変してどしゃぶり雨に。その雨が弱まりかけたところで、12:15。
ファンのみなさまに迷惑とならないよう、信号を渡ったところで見ていた。5、60人はいただろうか。通るのにもちょっと一苦労というぐらい、スペースが埋め尽くされていた。まったく別件で、交通安全運動のためのテントが張られていたのだが、傘を持たない人はこれに入ったり、あるいは建物にくっついたりして、雨をしのいでいる。
それにしても不思議な光景だ。何かイベントがおこなわれるわけではない。これほどの人を引き付けるのは、それぞれが持つ岡田有希子への思いだけだ。ただ見たくて、ただ思い出に浸りたくて、集う。まるでそこが磁場であるかのように。
12:20になり、少し人が減る。こうして散会になっていくのかと思いきや、時間が過ぎても、タクシーに乗って訪れる人が続々と現れる。ひとり去っては、またひとりやってくる。その繰り返しで時間が過ぎていく。
昼食を取り、再び外へ出てみると、すっかりと晴れ渡っていた。現場にはたくさんの花が供えられている。故人が生前、グリコのCMに出演していたからだろうか、ポッキーの箱も置かれていた。
昨日も書いたが、私はまだ2歳だったので事件の記憶はない。しかし、きょうあの場所へ集まった方たちには、それがある。彼女の死を区切りとする、それぞれの20年はどうだっただろうか。そう悪いものではなかっただろうなと思う。少なくとも、あの場所へやってきたのだから。生きてこの世に存在して。

4月6日付日本経済新聞夕刊

こころ欄に重松清。「家族、試練の時代 重松清さんに聞く」と題したインタビュー記事。特に目新しい発言はない。

4/3、早大教育学部入学式

もう1件、記述しているblogを見つけた。
http://go-go-shimotuki.at.webry.info/200604/article_1.html