モノがかぶるということ

あるときを境にユニクロの服は着ていない。まあ、それまでも、毎日ユニクロってわけじゃなくて、持っているのはたしか、1着か2着だけだったように思う。
そのあるときというのは、予備校に通っていたころの話。ちょっと見知ってはいるけど話したことはない知り合いと、着ている服がかぶったのだ。赤系統のネルシャツだった。
何だか恥ずかしかった。
以来、その服は着ていないし、ユニクロへもベルトを買いに1度いったきりだ。
当時、私はその恥ずかしさを、世間的に安物とされている衣料品を着ているのが、他人に知れてしまうことに起因すると考えていた。
だが、よくよく考えてみる。すると、同じかばんを持つ人を見かけたときにも、同種と思われる恥ずかしさを感じたのを思い出す。このかばんは、現在日本で流通している一番高価な紙幣にして、2枚半ぐらいのお値段である。高級かどうかはさておき、安物の部類には入らないだろう。さすがに服と違って、使うのをやめてはいないのだが、それでも恥ずかしかった。
とすれば、値段の高い安いは抜きに、たんにかぶるということが嫌なのだろうか。そうとも思えないのである。
たとえば、ライオンズの応援をするとき。ユニフォームを着るわけだが、当然そこらのファンとかぶり放題である。でも嫌ではない。
なぜなのだろうか。なんとなくだが、最後のユニフォームは例外である感じがする。その理由を考えてみると、こんなことが頭に浮かぶ。
1:もともとかぶることがわかって着ている。
→かぶったときに味わう恥ずかしさに対して、あらかじめ準備ができている。
2:スタンドのファンと仲間意識を共有したいという気持ちが、恥ずかしさを上回る。
→たとえば、クリスマスをまえにして、恋人たちがおそろいのサンタルックで街を闊歩するようなイメージ。
まあ、どっちもあるんだろうなあと思うし、気づいていないほかの要素もあるような気がする。
たかが「かぶる」ということについて、ずいぶんと話を複雑にして書いてしまった(しかもその話は収束していないのだが)。いずれにせよ大事だと思われるのは、かぶることを恐れては、どんな既製品も買えなくなるということだ。恥ずかしく思うこともほどほどにしたいものである。