『小説新潮』7月号
第21回山本周五郎賞発表に合わせ、選評が掲載されている。以下は、重松清のところより。
作家とその作品が語られるとき、最近「○○ワールド」という言葉をよく目にする。個人的には――少なくともそれが自分の名前を冠して用いられた場合には、「要するにマンネリズムの言い換えだよな」とヒネたことを思い、時に深く落ち込んでもしまうのだが(後略)
こんなことをいっておきながら、その「重松ワールド」、自分でも使っているのである。以下、『酒とつまみ』第6号より。引用部分だけ読んでも面白くないことは、お断りしておく。
重松 聞く聞く。だってね、ずっと悪かったわけじゃなくて全盛期もあったわけでしょ。「おーいパパ!」みたいなの。これね、ものすごく「重松ワールド」なわけよ(爆笑)。
このblogでも、「重松ワールド」という言葉を何度か使ったが、すべてこの『酒とつまみ』第6号(2004年12/25発行)の後のことである。
なぜこんなことをわざわざ断るのか。それ以前、ネット上で「重松ワールド」だとか「重松節」などと書かれるのを見ていたのだが、いい気がしなかった。こういう言葉を使うことで、何かを説明する労力を省いてないか、と。
しかし、本人が使っているならいいかと解禁したのだ。それなのに、「深く落ち込んでもしまう」って。自分で使っておいて。
選評の話に戻るが、「…という言葉をよく目にする」とある。ふーん、自身も、けっこう読者の評価はチェックするんだ、と思った(アマゾンのレビューか)。
『いのうえの 満月篇』
下記URLによると、重松清の感想が載っているそう。
http://yosiasi.blog.drecom.jp/archive/277
『いのうえの 満月篇』というのは、「井上雄彦最後のマンガ展」を再現したもので、これを見にいった人でないと予約ができなかったそうな(下記URLなど)。
http://d.hatena.ne.jp/pen-cile/20080916