伊藤裕作著『娼婦学ノート 戦後物語られた遊女たちの真相』(データハウス、2008/3)

娼婦小説35作品*1を取り上げ、「風俗ライター歴30数年」(奥付より)の著者が考察を加える。
その考察というのは、作中に描かれた年が性風俗的にどんな時代だったかを解説したり、あるいは自分がかかわってきた女の子に登場人物を重ねたりというもの。硬さはなく読み物として楽しめる。
いい本なのだが、不満がかなりある。まず、ストーリーをなぞるにあたって、ネタバレをまったく気にしていないことだ。したがって、扱われている本が面白そうだなと思っても、読む気は起こらない。
次。1785円(税込)もして、しかも上製本なのにスピンがない。ケチな。
あと、この人の文章、生理的に好きになれない。たとえばこんな一文。
「靴磨きの少女が、実は街娼ほかの町からやってきた街娼との喧嘩の場面物語は始まる」(p.17、太字引用者)
「で」が重なって読みづらいのだ。p.71の冒頭にも同様の例が見られる。
あるいはこんな一文。
この記述に、この女性作家がヤクザも、ソープ嬢も、ただ金、あるいはセックスという目先の欲望のためのみで生きているのではないことを書きたいのだということがひしひしと伝わってくる」(p.159、同上)
一文のなかに「この」が複数回使われるのは、上記箇所に限らない。指示語なんて、なしでわかるならそのほうがいいと思うけどね、私は。
以下、誤植等の指摘。

p.9

「酸いも甘いも知リ尽くした大人の女の物語だとばかり思っていた」
→「リ」がカタカナになっている。

p.34

冒頭の「こめかみ」の「かみ」の字が90度回転した状態で入っている。引用部分なので、誤植と断言はできないが。

読点を重ねる

意図的にやっているようなのだが、この著者、読点を重ねるくせがある。引用のまえ(p.26、86、124)が多いけど、それ以外にはこんなのがある。
大正8年(1919)生まれで、京都の禅寺、、等持院で」(p.64)
「それは多分、、人(父親)とつながりたいと思う」(p.87)
「これはわたしの持論なのだが、、見ず知らずの」(p.194)
表現は自由なものであり、好きなように書けばいいと思う。だが、あまり意味が感じられない。

p.71

「ふと洩らす、そんを言葉がやけに気になる女のコでもあった」
→「そんを」言葉って何だろう。

p.147

「つまり自分の半分だけ娼婦という生き方しようと企てる女性が現れ始めた」
→「生き方をしよう」のつもりなんだろうな。

*1:http://youmore.blog105.fc2.com/blog-entry-244.htmlに著者名・作品名が列挙されている。