森達也著、重松清解説『クォン・デ もう一人のラストエンペラー』(角川文庫、2007/7)

クォン・デ。聞いたことがないなあ、とっつきにくそうな本かな。そう思って読み始めたのだが、さすがに森達也。テレビのドキュメンタリー同様に、読者をぐいぐいと物語へ引きこむ。
まず最初の不安についてだが、まったく杞憂。というのは、著者自身がクォン・デをまったく知らないところからスタートしているからだ。なぜこの人物を追求することになったのかを初めに明かし、クォン・デの生涯を資料から浮かび上がらせ、そしていまを生きる人たちにとってクォン・デがどのような存在なのかを取材していくという構成。
私がこれまで森さんの評論などを読んできて思ったのは、先入観とか偏見から自由な人だなあということだ。それに加えて、この本ではフェアな彼の姿を見ることができる。
ドキュメンタリーにおいて、作り手が望むことを話してくれそうな取材対象を用意するのは、常套手段だろう。フェアな森達也は、こんな手段を――使うのである。森達也のフェアネスというのは、そういう手法を避けるのではなく、自分がそういうやり方をしたのだと、しっかり書き留めておくことにこそあるのだ。
書中、森さんがホーチミン市内にある日本語の専門学校で校長をしているホエさんに会いにいくくだり。
「救国の英雄であるクォン・デへの称賛は当然として、日本とベトナムを繋ぐ視点から、その業績や評価についての思いをホエさんに語ってもらうつもりだった」(p.268)
結局その期待は裏切られ、クォン・デについては否定的な発言しか出てこない。
また、単行本版あとがきではこう書いている。
「(前略)だからこそ(特にクォン・デの生涯を描写するとき)、作為的に筆を走らせた個所は幾つかある」(p.334)
あまりにもストレートに「作為」という言葉を使う。繰り返しになるが、これが森達也のフェアネスである。自らの意図が文中にこめられていることをきちんと明らかにするのだ。
私はこういった森さんのスタンスに共感する。作為なしにものなんて作れないのだ。それなのに、世のなかには、いかにも中立の立場で書いたように装っているやつが多すぎるよ。まったく。

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