小説新潮』11月号

短編「おまもり」が掲載されている。扉のページによると、「村内先生シリーズ待望の新連載スタート」とのこと。村内先生がらみの話は、ことしの4月号、7月号と掲載されたが、なぜ仕切り直しの「新連載」なのかはよくわからない。
さて、この「おまもり」だが、率直にいい話だった。小説のよさというのは、自分が経験したことのない場面や状況を本のなかで体験できることだ。重松清は以前、こんな趣旨のことをいっていたが、まさにそうしたありがたみを感じる。
終盤でのこんな表現には笑い。

通話ボタンを押して電話を耳にあてる。呼び出し音のリズムは、先生が言葉をつっかえさせるときと……あんまり似てないか、ちょっと強引でした、と笑って肩をほぐした。

筆者が、強引にいきそうになった自分を反省してる気がするね。
余談だが、扉ではなく目次のほうにはこんなことが書いてある。「待望の学園小説連載スタート!」。これ書いた人は、学園の意味をわかってるのだろうか。

オール讀物』9月号(06)

04/10、05/2、5、8、11、06/2、6、8と掲載されてきたシリーズ小学五年生。この号では、掌編「もこちん」と「金魚」が掲載された。文末に了の字があったけど、この号でラストなのだろうか。
「もこちん」:水泳の授業。見学は女子3人に男子1人。その1人であるもこちんは、プールサイドから女子の水着姿を見てはこーふんを隠すのに必死だった。やがて、女子3人からなぜ「もこちん」と呼ばれるのかと聞かれる。
面白かったけど、5年生の水泳で、そこまで考えはしないんじゃないかなというのが正直な感想。もっとも、本文はプールの外にいればこそ、いやらしい部分に目がいくんだという書き方になっていて、私はその「外から見る」ということをしたことがないので、なんともいえない。
「金魚」:友人のヤマケンは、5年生のときになくなった。ことしが三十三回忌。いま自分の息子ワタルもまた5年生。ヤマケンは金魚すくいをきっかけに命を落とすことになった。そのを金魚すくいをワタルにやらせる。
ヤマケンが死ぬにいたった状況が、ちょっと非現実だし、全体的に無理やりこじつけている印象を受けた。