先生と学生のやりとり

家の外に出ないと、blogに書くような話もなくなる。そういうわけで、例の文章についてコメントしておきたい。『文藝春秋』4月号を手に持ち、少し外に出っ張った広告のページを目印にページをめくり、「新聞エンマ帖」が見えたらスピードをゆるめて、例の連載に着地する。
直接の関係はないけど、一応前半部分についても感想を書いておく。

まず出席はとらない。評価は年に一度のレポート(授業の内容には関係ない自由作文)を出せば落第は絶対にさせない。

とあり、「私の授業は(中略)楽勝課目」だと書いている。
学生からいわせてもらえば、落第させないだけでは「楽勝」とは呼ばない。レポートの提出をすれば、全員がAなり優の単位を得られる授業こそが、真の「楽勝」である。
ここまではどうでもいい。問題はこの先だ。

迷惑なのは、私の授業内容をブログで公開している学生がいることだ。/その内容が正確であれば問題ないが、困るのは、それが不正確であった時だ。

授業では、発言者に対して金銭の支払いなくblogに掲載し、読者を増やしているということを付け加えでいっていた。にもかかわらず「内容が正確であれば問題がない」と考えを改めたようだ。これは、正確に書いている(つもりの)方への配慮なのだろう。

こういうブログ、といっても、そういうブログを書いている人間にかぎって傷つきやすかったりするから、具体的な内容はぼやかして、先週のこの授業について何ヶ所も意味を取り違えて紹介しているブログがあった、とだけ言った。

いくつかの疑問がある。まず、傷つきやすいといえるのかどうかだ。筆者になりかわって考えてみたい。
ネット、ひいては2chに否定的な人がよくあげる論拠に、「弱い人間だから、現実世界で批判的なことがいえない。だから匿名の世界に逃げている」というものがある。一般にこういう図式が成立するのかどうかはわからないが、少なくとも私はこの図式からはずれている。
次に、なぜ傷つけないために配慮をしたのかということだ。まさか講義評価アンケートを気にしたわけではあるまい。あれを気にしていないことは、『SPA!』3/21号より明白だ。
逆から考えてみることにする。つまり、傷つけないための配慮をしなかった場合についてである。
直接的に、たとえば具体的なblogのタイトルまで出して、「あんなものは読むに値しない。ゴミ同然だ」といった厳しい指摘をしたとする。こうしたら、どうだろうか。仮に傷ついたとしてどうなると坪内さんは考えたのだろう。こんなにぼろくそいわれたらもう生きていけません、と死なれることを恐れたのだろうか。それだけのことで死ぬとは思わないだろう。
結局は反発を恐れたのだと思う。坪内さんが「こういうブログを見たのだけれど」という話題を持ち出した最大の目的は、今後授業について載せるのをやめさせるためだ。でも、ただ押し付けるように「あんなものはだめだ」といったら、抵抗されてそれがかなわない。だから、納得してもらえるように「文章化の難しさ」の話を持ち出して、理論的な説明をしたのだろう。
学生の気持ちを慮ったように読めてしまうが、結局は不正確な文章が流れるのを回避するという目的をもって、自分のためにしたことなのである。「傷つきやすくて、反発されると困るから」というのが正確なのに、そうではなく「傷つきやすかったりするから」と文字にした裏には、いい人ぶりをアピールしたいという思いでもあったか。
そこまで考えずに、人としての当然の感情の発露で、傷つけないようにした、というのかもしれない。でも、当然の感情の発露の裏には、こういうことがあるわけだろう。

するとその日の彼のブログで、もちろん自分の事がやり玉に上がっていたとは知らずに、彼はまたデタラメな内容を書いていた。

「知らずに」となぜいいきれるのだろうか。しかも、「もちろん」とまで決め付けている。こうやって安易に断定をしてしまう人間がジャーナリズムを講じていたのか。
実際のところ、自分のblogについて話しているのだということはわかっていた。そのことは初講日(昨年4/13)に気づいている。
そこでは、このblogの4日前に書いたこと(id:amanomurakumo:20050409)をふまえて、坪内さんが「『坪内の授業はレポートを出さなくても単位がくると書いてあるが、本当だろうか』とブログに書いてあった。そういうのはちゃんと見ている」といっていた。だから、チェックされているということは、その時点で認識しているのである。
そして、blogについて取り上げられた日(第3講)には、自分のことがやり玉にあげらていたのを、あえて記さずに、つまり、「このblogについて(坪内さんがこういう話をした)」とは断らずに書いた。なぜか。それは坪内さんが「ぼやかして」そのことを述べるからだ。それに応じて、私もあいまいな態度をとっただけのことである。
おそらく、坪内さんには、先生に注意されたことはやめるべきだという価値観があるのだろう。私にはない。それが

教壇からの私のメッセージが伝わらなくなって行ったことにイラ立ちをおぼえた。

原因なのだと思う。世代というものを感じさせるいい文章だった。
いままで、世代というよりも、むしろその人個人の考え方の違いが大きいのかなと思っていたが、世代というのもやっぱり大きいのだということを突きつけられた。と同時に、おそらく『ダ・カーポ』の連載だったと思うけど、「学生の質が低い」ということを書いていたその最大の原因が自分にあるらしきことを知り、なんでいまさらという感じがしなくもない。それは村上春樹「ある編集者の生と死」もまたしかり。
転載部分はすべて、坪内祐三「人声天語」『文藝春秋』4月号pp.428-9より。