作家は2chを見る

川端裕人のブログ

バックナンバーを見ていたら、興味深い記事を発見した。作家が自分のことをネット検索するかについて、「ぼくは自分のことしか知らないけど、しますよ」と書いている(下記URLより)。
http://ttchopper.blog.ocn.ne.jp/leviathan/2005/11/post_6a85.html
そして、2chで自分に否定的な書き込みがなされていることについて、認知されればこそだと、乙武さん(http://sports.cocolog-nifty.com/ototake/2003/06/post.html)同様にまとめた。
参考までに、問題にしている2chの書き込みは以下。

242 名前: 名無しは無慈悲な夜の女王 [sage] 投稿日: 2005/11/07(月) 01:16:17
こいつむかつくな
氏ねよマジで
243 名前: 名無しは無慈悲な夜の女王 [sage] 投稿日: 2005/11/11(金) 16:15:52
>242
何故?
244 名前: 名無しは無慈悲な夜の女王 [sage] 投稿日: 2005/11/12(土) 20:54:28
ブログで禁煙ファシズム批判やってるからじゃないかな
245 名前: 名無しは無慈悲な夜の女王 [sage] 投稿日: 2005/11/21(月) 08:14:53
何かしらブログに書いてることが気に入らないんだろうね
たぶん小説とは関係ないと思う
このスレを立てた人間としては申し訳ない気持ちで一杯です
川端先生ごめんなさい…スレもあまり盛り上がらなくて…。・゜・(ノД`)・゜・。
246 名前: 名無しは無慈悲な夜の女王 [sage] 投稿日: 2005/11/22(火) 23:44:36
何も泣かなくてもw
以上、SF・ファンタジー・ホラー板の「川端裕人」スレ(http://book3.2ch.net/test/read.cgi/sf/1036079529/)より。日記記法の関係で、一部表記を変更した。

一応、はてなのキーワード「川端裕人」を、昨年11月の頭から見返してみたが、この記事について言及したものはない。だから、ちょっと書いてみようと思う。
作家の場合、2chを見ていると公言することの意味合いは、たとえばスポーツ選手などと比べて明らかに違う。何が問題か。
スポーツ選手は、結果さえ出せばたいていの批判は封じることができる。逆に結果が出せなければ、容赦なく批判にさらされる。
それは、作家だって同じだ。売り上げが伸びなければ、あるいは長い間文学賞にかすりもしなければ、編集者に見放されていき、ゆくゆくは仕事がなくなる。
だけどスポーツ選手と違って、売り上げは努力次第で伸ばすことできる。書店を挨拶まわりしてみたり、そこで自作にサインをさせてもらったり。
努力はweb上でも可能だ。2chに「リスクテイカー読みました。これだけきっちりと取材して書いている文芸書はめったにないね。ほんと面白い。この人の本でなんかほかにおすすめある?」と自作自演で書き込む。そうして高評価を作り「へえ、そんないいのか」「じゃあ私も読んでみよう」と思わせるわけだ。ここに「まだ世間にはそれほど知られていないけど、いい作品を書く作家川端裕人」ができあがる。
要するに、2chを見ていると発言することの負の面は、「>>75=川端本人」などと書かれる、ということではないだろうか。そうして読者が真に書き込んだ感想まで、自作自演だと疑われてしまう。それでもいい、そういわれてもなお、自分はいい作品を書いているのだという自信があるのならば、何もいうことはない。

2chにおける自作自演

一般書籍板でいくつかの作家のスレッドを見ている。そうしていて感じるのだが、自作自演は意外にばれている。やってる本人は気づいていないかもしれないけど。
たとえば、作品の好意的な感想を書き込む際に、「さっきニコチアナを読み終わったけど、……」と始めるのか、「ニコチアナ読了」とするのか、人によってだいぶ違うだろう。それにもかかわらず、毎回、読了報告の形式が一定とか。別に違う作品の評なら、同じ形式で書き込んでいてもいい。けど、たいがい同じ作品がいくつも、だったりする。
こういうのを見ていると、2chはいいから仕事しろよ、なんて思う。けど、不思議と「必死だな」とは感じない。むしろ可愛らしいぐらい。

川端裕人という作家

既読1冊のみ。その1冊、『ふにゅう』を読んだときに思ったのは、数年後に直木賞を取るだろうなということ。それぐらいの筆力を感じてしまった。
昨年度、経済学史の授業を受講していたのだが、そこで参考文献にあげられていたのが『リスクテイカー』。先生は「文芸書だけど面白いですよ」と紹介していた。全然違うジャンルなのに、『ふにゅう』と同じ作家だと知り、とても驚いた記憶がある。
こんなこともあって、私のなかで川端裕人の期待値は高かった。過去形である。あるときを境に、その考えを改めた。あるとき、というのはもちろん激怒事件(id:amanomurakumo:20050423参照)ではない。『野性時代』で彼の文章を読んでから、だ。
そこで思ったのが、この作家は取材をしないと書けないのではないだろうか、ということだ。もちろん取材や下調べをすること自体は大いに結構だ。しかし、それに頼り切った文章にあるものは、筆力ではなく、事実の重みである。私が感じたのも、筆力ではなく、たぶん事実の重みってやつだったのだろう。
文学賞の下読みをする人たちも、こういうことをわかってるんじゃないのかな。そうでなければ、これほどまでに読者の評価が高い作家が、一度も直木賞候補になっていないのはおかしい。
あるいは、こういうこともあるかもしれない。読者の高い評価はすべてフェイクである、つまり川端裕人に好意的なblogはすべて自身が執筆したもので、彼は常時20個も30個も自作自演blogをやっている、と。冗談で書いたつもりだが、これまでに複数個のblogを書いた経験がある彼ならば、そんな神業も可能かもしれない、とも思う。