角田光代小説、松尾たいこ絵『Presents』(双葉社

私事だが、父親とはあまり話すことがなくなった。そうなってしばらくすると、彼は私に本をよこすようになった。アマゾンで。
だいたい月に1度、2冊ずつ送られてくる。洋書が多かった。ジャンルは学問やら、偉人の伝記やら。
気持ちはありがたい。だけど、送ってくれても、忙しいから読めないし、英語だから読む気が起きない。別に私が悪いわけじゃないと思う。なのに、なぜか罪悪感を感じる。そんなわけで、お願いして本を送るのはやめにしてもらった。
だから、プレゼントに本なんて最悪だと思っている。それでも、もし贈るとしたら、あるいは贈ってもらうとしたら、この『Presents』のようなものがいい。そういう素敵な本だ。
短編、というよりもショート・ショートと分類するのが適切なのかもしれない、短いお話全12編。プレゼントにふさわしいと思ったのは、12編のいずれもが、日常をよりよく生きるヒントを与えてくれるからだ。
たとえば、最初の「名前」。自分の名前は春子、由来は春に生まれたから、ときわめてストレートで、そんな名前が嫌い。だけど、ある機会に、その平凡な名前にも大きな意味があることを知る、というストーリー。いまどきの子どもは、芸能人みたいな名前をつけてもらうことが多いと聞く。そんななか、ヨシオとかヒロシという名前で、肩身が狭い思いをしている人もいるはずだ。この「名前」は、彼らにとって、大いなる救いとなるだろう。そういうふうにして、全12編が綴られている。
きょうの日経夕刊で、北上次郎がこの小説のことを書いていた。まったく同感で、ほんとに「うまい」。

ちょっと待ってよ、何今の何今の何今の。なんなのなんなの、なんなのよいったい。(pp.42-3)

ここなんか、視覚的にも文章を味わえる。そういえば『いつも旅のなか』にも、こう感じた箇所があった。
p.152では、野菜炒めを作ろうとしている。
家庭はばらばらだけど、それでもだいじょうぶ。野菜炒めだって、もとは別々の野菜の集まりで、それでもひとつの形をなしてるじゃん、という意味なんだろうな。うまい。

12月7日付読売新聞朝刊

11/22の大沢在昌さんとの対談の模様が、広告として2ページにわたり掲載されている。やっぱり面白いところは活字にできなかった、ということを確認。
ちなみにどんな話かというと、本文の最後にもちょっと触れられているが、サイン会にきてくれた業者さんについて。当日はもっとその話が広がっていた。

八日目の蝉(水上多摩江画、読売新聞夕刊)

読売取ってないから、図書館である程度まとめて読んでいる。が、そういう読書には向かない。つまり、ある日、きょうから読み始めようかなと思っても、あらすじがないとつらいと思う。
11/21:第1回「0章」
11/22:第2回
11/24:第3回「1章 一九八五年二月三日」
11/25:第4回
11/26:第5回
11/28:第6回
11/29:第7回
11/30:第8回「二月四日」
12/1:第9回(月の初めにつき、あらすじあり)
12/2:第10回「二月五日」
12/3:第11回(途中から)「二月六日」
12/5:第12回
12/6:第13回
12/7:第14回
12/8:第15回(途中から)「二月七日」